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エンジニア的、原因と再発防止(実例)

日時:2008/08/12(火) 19:46   カテゴリ:私教
一応、この話は終わったつもりだったんだが、ふと思い出したことがあった。

以前私が勤務していた工場の生産ラインでは、どうしても一箇所だけ作業者のカンに頼らなければならない部分があった。21世紀になっても、機械が人間のカン・コツに勝てない事など、多々あるのだ。
その反面、人間がラインの中で手作業を行うことは、安全性の問題もあるが、うっかりミスをやらかして不良品の山ができる確立が、格段に跳ね上がる。
なんせ真夏になると、外にいるほうが涼しいような工場だったのでね。手の空いた時は、クーラーの吹き出し口周辺で涼んで体力回復をしないと、本当に熱中症で倒れてしまう。そんな中で手作業を行うのだから、うっかりミスをやらかしても不思議なことではない。

とはいえ、製造現場の管理職の方々は、不良品の山が高くなってゆくのを、黙って見ている訳にはいかない。しかし、いくら注意をうながしても、なかなかうっかりミスというのは減らないものだ。怒られた後、しばらくは一時的にミスは減るが、次第に増えてゆき結局怒られる前に戻ってしまう。
大きな工場だったので、大勢の管理職の方が、みんな頭を抱えこんでいる日常的な問題だった。

ある時、一部のラインで劇的に不良品が減った。つまり、生産ラインの中で作業をしているオペレーター達のうっかりミスが、大幅に減ったということだ。
はてさて、どんな対策を施したのか。
噂のラインを見学しに行ってみた。
特に、変わった様子はない。
他所のラインと大きく違う点が見当たらない。
不思議に思いながら、ラインの中を覗き込んだ。

ぬをっ?!

そこには、管理職のおっさんが鬼の形相をしている写真が貼ってあった。
思わず笑ってしまったが、まさに妙案だった。
デジカメで撮影して大きくプリントアウトした写真1枚。たったそれだけの対策。
コストなんて、どう計算すればいいのか解らないくらい、安い。
たった、それだけ。
それだけの事で、大幅に作業ミスを減らすことに成功した。

この管理職のおっさんは工場長から表彰され、他の製造現場にもこの事例が紹介された。
その後、そこらじゅうの製造現場に、管理職のおっさんの写真が貼ってあるようになった。個人的には勘弁して欲しかったが、どうやら本当に怖いおっさんの写真ほど効果が高いらしかった。

嘘のような、ほんとの話。

もし、グラビアアイドルの写真とすり替えておいたら、不良品だらけになったのかな・・・。

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タグ : 私教

エンジニア的、原因と再発防止(再発防止)

日時:2008/08/12(火) 12:15   カテゴリ:私教
前回の続き。

何らかの悪い事が起きた時、原因を追究するのは「アイツのせいだ!」といった『犯人探し』が目的ではありません。元の状態に戻すだけでなく、再び同じような事態を招かないよう、再発防止を施す為に深く原因を追究するのです。


洗濯機が壊れた、という事例で話を進めます。

洗濯機を調べてみると、蓋の開閉を検知しているマイクロスイッチ(こんなヤツ)が破損していたとしましょう。マイクロスイッチが破損したために、洗濯機は蓋が開きっぱなしだと判断し、脱水直前になると停止していた、というわけです。

では、なぜマイクロスイッチが壊れたのか。マイクロスイッチは数万回の耐久性があるので、1日に10回洗濯する家庭でも10年近くは壊れないはずです。ところがそのお宅では1日に50回も洗濯していたとします。すると1年で18,250回は蓋を開閉するわけですから、数年でマイクロスイッチが破損するでしょう。
10年間使い続けて破損したのなら経時劣化と言えますが、この場合は、使用条件と洗濯機の性能のミスマッチです。

では、なぜそのようなミスマッチが起きたのか。「1日の洗濯量が50kgだ」と店員に告げたのに、店員の強い薦めで洗濯容量1kgの洗濯機を購入していたとします。もし容量10kgの洗濯機を購入していれば、1日5回の洗濯で済むわけですから、マイクロスイッチも長持ちしたはずです。
しかし、「1日に50回も洗濯したら、マイクロスイッチが数年で壊れるから、他の洗濯機がいい」と、店員の薦めを断れるお客さんなど、まずいないでしょう。つまり、購入者側に非は無く、店員の選定ミスということです。

では、なぜ店員がそんな選定ミスをしたのか。これ以上は、話が長くなりすぎるので割愛します。(笑


さて、このように原因を突き詰めた後、いよいよ再発防止策の検討に入ります。

おそらく販売店側は、なるべく低予算で効果の大きい再発防止策が検討されるでしょう。
本来なら店員が選定ミスをした原因から考えるべきなのですが、とにかく店員が選定ミスをしないように、販売店側の体制を見直すことが必要でしょう。知識不足だったのなら、教育体制を整える。安い小型の洗濯機のほうが販売成績を稼ぎ易かったということなら、顧客重視の販売方針を徹底させる。お客さんの使用条件とミスマッチが発生しないように、チェックリストを作ると言うのも再発防止策の一つです。

一方、故障した洗濯機をどうするか。
修理に来たサービスマンの裁量で、10kgの洗濯機に交換してくれるようなメーカーは、まずないはずです。大容量の洗濯機への買い替えをお客さんに薦めるのも再発防止策の一つですが、修理に来たサービスマンが本当に力を入れなければならないのは、そこではありません。
現時点では1kgの洗濯機しかなく、毎日50回洗濯という使用条件も変えられません。マイクロスイッチを取り替えただけでは、数年後にまた破損するだろうと容易に想像できます。となると、やはり再発防止策が必要になるでしょう。
比較的簡単なのは、同型のマイクロスイッチではなく、別のセンサーに変えてしまう事です。
例えば、数百万回の耐久性があるマイクロスイッチに変更するとか。
例えば、非接触型のセンターに変更するとか。マイクロスイッチは、接触型です。蓋の一部が軽く当たる事で、蓋が開いたことを検知しています。接触するからダメージが蓄積されて、いつかは破損するのです。ならば、赤外線や超音波を使った非接触型のセンサーに変更すれば、耐久性を心配する必要はありません。

この事例では、店員の選定ミスによって、マイクロスイッチは壊れるべくして壊れたわけです。ですから、あくまでも、店員が顧客の使用条件とマッチした製品をオススメできるようになるまでが、再発防止策の本筋であります。(この事例ではね)ここをしっかりやっておかないと、あちこちのお宅で洗濯機が動かなくなるでしょう。
しかし、既に洗濯機が壊れてしまった以上、本筋だけ推し進めても、壊れた洗濯機が動き出すことはありえません。修理が不可欠となりますが、修理の段階においても、可能な限り策を講じて再発防止に努めなければなりません。店員の選定ミスを無くす再発防止策は、エンジニアでなくても検討できますが、壊れた洗濯機を直しつつ壊れにくくするというのは、エンジニアのお仕事です。このとき、原因を追究していく過程で発見された『現象』が、再発防止策の検討課題になってきます。
とはいえ、これが結構、大変なんだよおぉ・・・。

原因をとことん追究するのは、本筋となる根本的な再発防止策を講じるため。
原因追求の過程で見つけた『現象』は、エンジニアが眼前の状態に応急的な再発防止策を敷設する為の検討材料。

以上、ちょっと特殊な、エンジニアならではの論理ではないでしょうか。

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エンジニア的、原因と再発防止(原因)

日時:2008/08/11(月) 14:18   カテゴリ:私教
ある方がユニークな発想をされていて、それが凄く新鮮だったので、対比するために私のような産業機械を扱うエンジニアのドライな論理をご紹介。

まず、良い事が起こった時、例えば予想以上の品質を得られたような場合、エンジニアは「予定通り!」と言い切り、原因を深く考えません。(笑

悪い事が起きたとき、エンジニア原因を深く追求し、再び同じ事がおきないよう、再発防止策を施します。
しかし、原因を深く追求すると言っても、『原因』を突き詰めていくと、自然災害、経時劣化、人為的過失、故意、の4つぐらいしかありません。


例えば、柄のついた手鏡を落として割ってしまったとします。
おそらく多くの方は、「手が滑った」「よそ見をしていた」「柄の部分が折れた」「持ちにくい形状だった」「魔がさした」などを、『原因』として思い浮かべるでしょう。ところが我々エンジニア原因追求するときは、これらはすべて原因ではなく『現象』として扱います。ここが非常にエンジニアらしいところなのです。

まず、「手が滑った」場合について考えてみます。「手が滑った」のは、「鏡が落ちて割れた」状態に達する直前の『現象』であり、なぜ手が滑ったのかを探っていきます。
仮に、柄の部分に滑りやすいテフロンコーティングが施してあったとします。初めから柄の部分が滑り易い手鏡だったのなら、いつかは誰かが手を滑らせて手鏡を落とす事ぐらい、容易に想像ができたはずです。もし、わざわざそんな手鏡を選んで買ってきたのなら、買ってきた人の選定ミスが第一に挙げられます。また、いつも使っていた人達全員が、滑りやすいまま使っていたという危険認識不足を問われます。いずれも、原因は人為的過失となります。

では、「柄の部分が折れた」場合について考えてみます。やはり、「柄の部分が折れた」のは、「鏡が落ちて割れた」状態に達する直前の『現象』なので、なぜ柄が折れたのかを探る事になります。正しく使っていたのに折れてしまったのなら、メーカー側に問題があると考えられます。最初から充分な強度を持たせていなかった設計ミス、設計上は問題ないが製造工程で設計通り作られなかった製造ミス、保管や運搬や検査時のミスなど、いずれにせよメーカー側の人為的過失が原因でしょう。
しかし、この手鏡が製造後100年も使い続けてきた物で、メーカーが想定した耐用年数または使用回数を遥かに超えていたとすると、寿命つまり経時劣化が原因となります。

このように、とことん「なぜ?」と問い詰めていくと、自然災害・経時劣化・人為的過失・故意のどれかに行き着いてしまうのです。機械や設備の修理をやった事のある方なら、容易に理解できる話だと思いますし、既にいつもこのような論理で考えている方も多いでしょう。
エンジニア以外の方やエンジニアでもソフトウェア専門の方にとっては、あまり馴染みのない話でしょう。おそらく、「現象」と「原因」を混同することなく、再発防止策を検討する際に大きな意味を持つ正確な『原因』を見極めるには、コツがいるのではないかと思います。
再発防止策については次に語りますが、本来はソフトウェア専門だろうと、再発防止策を施す立場のエンジニアの方なら、こういう考え方を身につけていなければならないのですが。

ただ、我々も人間ですから、「なぜ?」と追求していった時、どんどん人為的過失に向かっていくと、「ここまで追求しなくても・・」とか「仕方ないと言えば仕方ないんじゃないか・・」とか「人望もあって普段はミスなんか全く無いのに・・見逃してあげたいけど・・」などと、情に流されそうになってしまいます。
しかしながら、より効果的な再発防止策を施すためには、『これも仕事』と割り切ってクールでドライに原因追求をしなければいけないのです。
とはいえ、やはり報告書を書くときは、かなり苦悩しますがね・・。

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生は罪に問われないと思ふ

日時:2008/08/08(金) 21:59   カテゴリ:私教
これも、幾人かブログに書かれていて、引っ掛かっていたこと。

生死と罪に関する記述なので、伏せます。
精神的に安定していない方の閲覧は、固く禁じます。
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「後悔」をやめるススメ(その2)

日時:2008/07/31(木) 16:23   カテゴリ:私教
自分だけでなく、つい他人にまで求めてしまうのが、「言い訳をしない」こと。

言い訳って、結局は自己弁護。
弁護するような「何か」があったから、言い訳をするのだ。
もし負い目を感じたり、非があったとわずかでも感じているなら、それを話せばいい。
負い目を感じる理由を述べて謝ればいいのに、言い訳をすればするほど「負い目は感じているが反省後悔もしていないし謝りたくもない」と、わざわざ自己主張しているようなものだ。

例えば遅刻をしてもその手の中に遅延証明書があったとしたら、「なぜ遅刻した?」という上司の問いに、「除雪車も出ていたんですが、思ったよりも雪が多くて時間がかかってしまい・・・」などと、鉄道会社に代わって言い訳をする奴などいないはずだ。

私が失敗した場合、「頑張ったけどダメでした。申しわけありません。今後は○○の方向でやりたいと考えます。」と言うことが多い。表現のしかたは違っても、基本的に『今の私の全力だった事』・『謝る』・『今後の方針』を、まず報告することから始める。
とても理解のある上司ならそれで終わる事もあるが、ほとんど場合は失敗した原因を聞かれるので詳しく説明する。
言い訳を考える時間があるなら、キチンと失敗を反省してどうすれば成功するのか考えるほうが、建設的であり重要である。おまけに、詳しく理由を聞かれなかったら、長々と説明する時間まで有効活用できてラッキーだ。

自論がそうだから、私は他人の言い訳をよく遮る。
言い訳を遮られた者から嫌われる事も多いが、言い訳は、する必要もなければ聞く必要もない。泣き言に聞こえるかもしれないが、「担当を代えて欲しい」というのも、実は立派な事後策だ。本当に反省しているのなら、言い訳よりも何らかの事後策のほうを強く訴えるだろう。
だから、私は言い訳を遮って、事後策の話に切り替える。
いくら言い訳したって、事後策がなければいつまで経っても改善されるわけがない。事後策を聞いて、何故そのような事後策を思いたったのかを詳しく聞く。
その事後策を思いたった根源こそが、失敗した理由なのである。
事後策を聞き、その事後策の根拠を聞けば、その人が失敗した理由をキチンと「反省」できているか、「後悔」で終わっていないか、ちゃんと解ってしまうものだ。

今まで様々な言い訳を聞いたり、思わず私が言い訳してしまった事を分析してみると、言い訳という自己弁護をすることで後悔反省から逃れようとしているのだろう。特に、反省から逃げたがっている。
後悔」は容易だ。ヘタレていればいい。いつまでも。
反省」は、前に進む気がなければできない。
自己弁護をすることで、「私は悪くない」と思いたい。思わせたい。
自分が悪くないのなら、後悔反省もしなくて済む。「後悔」は容易だが、鬱々としているのは嫌。「反省」は、もう次の事を考えなきゃいけないから、もっと嫌。
だから、「言い訳」という自己弁護をして、「私は悪くない」と自分や他人を思い込ませようとするのだろう。

言い訳をしているうちは、事態は何も変わらないのに。

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学校を休ませるのは有りか無しか

日時:2008/07/18(金) 08:25   カテゴリ:私教
興味深い話だったので、私も取り上げてみます。
否定的な記述が多々ありますが、賛成派の方も必ず最後まで読んでください。(笑

社会見学,特殊体験,情操教育などの目的であったとしても、子供に学校を休ませるのは、『無し』です。
ここで読むのを止めないで下さい(笑
もちろん、「人がどうかって考えてしまうから」などという、訳のわからない理由ではありません。
理由は、簡単。義務だから。
この国では、憲法によって義務が課せられており、特に教育・勤労・納税は「国民の三大義務」とも呼ばれています。この国で暮らす日本国民である以上は、この義務をはたさなければなりません。(無職の私が言うのもなんですが)
子供は勉強するのが仕事なんて言いますが、子供が教育を受ける義務というより、保護者が就学させる義務と言ったほうがいいでしょう。ただ、若者の少ない過疎地などで、農作業の繁忙期に子供を休ませて手伝わせるのは、死活問題ですからたぶん怒られないでしょう。忌引きも、大目にみてくれるようですね。
義務と定められている以上、保護者が義務教育期間中の子供を休ませるのは、『無し』です。もちろん、高校生なら、出席日数が許す限り、休ませてどこかへ遊びに行っても問題ありません。
これが正論。(学校へ行きたがる子供を休ませるのは罰せられますが、子供が欠席を選んだ場合は罰則がないみたいですけど。)

ここからが、私の本領発揮、もとい、私見です。

忌引きや死活問題を除き、学校を休ませるのが『有り』派の方々は、学校を休ませてでも『学校ではできない貴重な体験』をさせたい、という親心が大半ではないでしょうか。
これに対しては、『学校でしか体験できない貴重な体験』もあるはずだと、私は考えます。毎日、つまらない話を聞き、やりたくないことをやらされ、友情の儚さを知るということも、貴重な体験と言えるでしょう。もちろん、ありがたい経験ではありませんが(笑
個人的には、義務教育の恩恵は「泳げるようになったこと」しかありません。

また、子供が保護者の意図をどれだけ汲み取れるかという疑問もあります。保護者が子供のためにと考えてしたことでも、必ず子供のためになるとは限りません。私の母親は、「我慢を覚えなさい」と言って、脳を使わない玩具類は買ってくれませんでした。その反発から、大人買いを躊躇わない今の私が形成されたわけで、母の親心は見事に木っ端微塵となりました。
それに私は、体温計を擦って熱が出たフリをしてまで学校を休んでいた子供でしたから、学校を休めるのなら例えプリキュア5ショーだったとしても、「行く!」と答えたでしょう。(昔の体温計は、擦れば測定値が上がったのさ)

なんだか否定的なことばかり書いていますが、長らくお待たせしました。

要するに、義務教育が無意味だとは思ってないけれど、凄く貴重だとも思えない、というのが保護者の方の意見でしょう。それは、私も同感です。(笑
だから、学校を休ませてでも貴重な体験をさせてあげたいと、お考えになるのでしょう。突飛な話ではありませんねえ。

本質は、『凄く貴重とは思えない義務教育に問題がある』と私は考えます。(これが言いたかった!長い前フリだったなあ・・・)

つまらんもん、小学校でやってたことなんて!
私をスキーにでも海にでもネットサーフィンにでも連れて行ってくれ!
学校を休んでコンサートに行った奴を、羨ましくて、妬んだぞ!
一日も休ませたくないと、保護者に感じてもらえるようなことをやりやがれ!
中学校からしか、もとい、中学校しか勉強しなかったけど、それで大学院まで卒業できたぞ!小学校で勉強した事って、水泳と四則演算しか覚えてないぞ!
運動会なんて、恥を晒す場でしかなかったぞ!
小学校を3ヶ月ほど休んでも、何の影響もないんじゃねえ?
教師の不祥事も多いし、処罰が軽すぎるよね!もはや、学校が安全とは思えないもん!そのくせ、いたずらにしか使えないような防犯ベルなんか配りやがるし!
私が小学生の頃は相対評価だったから、努力してもどうにもならない理不尽さを初めて覚えたね!子供ながらに、傷付いたさ!せっかく頑張って100m泳げるようになったのに、体育『3』だったもん!あれは、泣きたくなったさ!もっと泳げる子がいるから仕方ない・・・なんて納得できるか、バカヤロー!10mしか泳げなかった子が、一夏で100mまで泳げるようになった事を、「仕方がない」で済ますな、こんちくしょうめ!10倍だぞ、10倍!野口先生が諭吉先生になるんだぞ!何も30にしろって言ってるんじゃない!5でいいんだ!1学期『3』→2学期『3』・・・ふざけんな!あの夏を返せー!

休んじゃえ!
連れて行っちゃえ!
より貴重で、より魅力的なほうを選べばいいじゃん!
小学校なんか、みんなに嫌われちゃえー!(もはや私情のみ?!

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人の価値(1)委ねる

日時:2008/07/03(木) 17:00   カテゴリ:私教
人の価値は、自己評価だけでは決められない。

例えば、料理の腕を極めたとする。そこが料亭やレストランなら、高く評価され人の役に立つ事ができるはず。だが、3食つきの寮に入って動物園で働く飼育係だったなら、極めた料理の腕を披露する機会すらなく、料理で人の役に立つ事はできない。

人の価値は、絶対的な評価として表すのが難しい。
しかし学生には、人の価値を数値で表した絶対的な評価がある。偏差値だ。私個人は愚論だと思っているが、偏差値宗教を崇拝する信者が多いこの国では、残念ながら偏差値なんかで学生の価値を決めてしまうことが多い。
学生自身も、自分の価値をそれで測って、安心している面があるかもしれない。しかし、学生ではなくなったときから、自分の価値を表す絶対的な評価基準が存在しなくなる。
社会人になってまず戸惑うのは、自分で自分の価値を測る『ものさし』が、その環境に用意されていない事だろう。企業に就職した場合、査定という自分を評価してくれる『ものさし』がある。しかしこれは、自己評価ではなく相対的な評価であり、周囲の、特に上司の主観によるものだ。自分で自分を測るための『ものさし』ではない。

人の価値は、例え自分の中に絶対的な『ものさし』があったとしても、それだけで判断するのは自己満足になりやすい。自分がいる環境によって周囲からの評価は大きく異なり、『役に立っている』のかどうかは、『周りの人が感じること』である。いくら自分が『人の為に』と思ってやったことであっても、周囲の人がどう感じるかで『役に立った』かどうかが決まるのであり、その評価基準は環境に大きく左右される。おおむね、人の価値というのは、わが身をおいた環境に委ねるしかない。

いくら頑張っても他人の評価でしか自分の価値が決まらないなら、何をどう頑張ればいいのか解らない、周囲にゴマをするほうが人の価値が高くなるのか、そんなことするくらいなら自分の『ものさし』を絶対評価にして励んでいく、そう考える人がいるかもしれない。
しかしそう結論付ける前に、自分自身が何に人の価値を見いだしているのか、人の価値をどう捉えているか、よく知るべきだろう。解りやすいのは、到達点を思い描く事。達成感をえられる状態を想像する事。どのような状態になったら、自分の価値を感じられるようになるのか。
例えば、どんなチューンでもできるメカニックになりたいとする。それは、何故なのか。どうして、どんなチューンでもできるようになりたいのか。どんなお客さんの要望にも応えられる為に、ではないだろうか。どんなチューンでもできるようになったと自己満足したいだけなら、自己満足が目的なら、自分の『ものさし』だけで励めばいい。お客さんという他人の評価と係わりがあるなら、自分の『ものさし』だけでは不充分だ。

人の価値を他人に委ねるのは、他人の顔色をうかがうことではない。
自分がこうありたいと思い描いたとき、人はその環境に身を置こうとするが、ここで努力が必要な場合もあるだろう。優秀な弁護士になりたいなら、まず試験に通らなければならない。
頑張った結果、その環境に身を置く事ができたとして、そこがゴールではないはずだ。そこから、こうありたいと思い描いた姿を達成するための努力が始まっていく。
このとき、何のレスポンスもないのでは、達成できたかどうかも解らないし、努力の方向性が正しいかも解らない。そのために、周囲のリアクションが必要になる。顔色をうかがうためではなく、フィードバックとして、今後の努力への参考として、他人の評価を受け入れる。
自己満足や空回りになっていないかチェックするためにも、さらなる精進を重ねるためにも、『他人の目に映った自分の姿』を正視するべきだろう。

自分の価値を追い求めるなら、評価は他者に委ねればいい。

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「後悔」をやめるススメ(その1)

日時:2008/07/03(木) 14:20   カテゴリ:私教
以前にも書いたはずなんだが、見当たらないのであらためて(たぶん)。

反省」と「後悔」は似て非なるもの。
どちらも、「どうしてあの時・・・」と振り返って失敗を考える事には違いないが、モチベーションによってその後の行動が全く異なってくる。ベソをかいていじけるか、立ち上がるか。
『何の為に』、悔しい出来事を思い返すのか。いじけるためなら、自傷行為と同じだ。
『より良く・次こそは・後進の為にも』などのポジティブな目的のために、失敗を悔やみ、ちゃんと正面から見つめなおすのが、「反省」。
『異なる現在・別の未来』などの虚しい妄想にひたって現実逃避をする等、ネガティブな目的のために、失敗を悔やみ、後ろからしか見ないのが「後悔」。
ベクトルが正反対だ。

私は、「こういう結果にしかならないから、止めたほうがいい。」と言われても、「やっぱり、そうか」と自分で体験しないと気がすまない。もちろん、失敗した時の対応策も準備した上でやるのだが。自分で経験しないと、『血肉』・『肥やし』にはなりにくい。
自分がそうなので、後輩から相談されても「やってみたら?」と答えることが多い。もちろん、失敗すると解っていて止めなかったんだから、私も責任をとる覚悟はあるし、失敗した時の対応策も私のほうで手配しておく。

よく後輩などに「やって後悔するくらいなら止めておけ、やらずに後悔するならやっておけ」と私は言う。補足しないと誰も解ってくれないけれど(涙
もし「あの時、やめておけばよかった」と、「後悔」する可能性が僅かでもあるなら、『やめておけ』。
もし「あの時、なんでやらなかったんだ」と、「後悔」する可能性が僅かでもあるなら、『やっておけ』。
後悔」などという無益な思いをするくらいなら、なるべく後悔しないと思えるほうを選ぶべきだと私は考える。
失敗してもキチンと「反省」する心構えがあるのなら、どっちでも構わないのだが。
そもそも、「反省」する心構えができている奴は、「どうしたらいい?」なんて聞いたりしないがね。

私は「反省」することはあっても、「後悔」しないように努めている。ここは意地を張るところだと、私は思っている。もちろん、誰でもない、自分に対して意地を張るべきところだろう。
悔しい思いは誰にでもある。
どんな時にでも起こりうる。
それをどう転じるか、結局は己次第でしかない。

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感謝の連鎖

日時:2008/06/09(月) 09:52   カテゴリ:私教
「感謝の連鎖」の説明は省略。
なんだよ。面倒じゃん。
ブログ内検索してくれりゃあ、出てくるから。
簡単に言えば「私へのお礼はいらないから、その分、誰かに優しくしてやって」ってことだ。

意味は過去記事を読んでもらうとして、さっきシャワーを浴びながら、思い出したことがある。
「感謝の連鎖」という、ネーミングについて。
最初は、親から子、子から孫へ伝わっていくように、人から人へ広がっていくことから、「感謝のねずみピー(自主規制)」と命名して笑いを誘おうかとも思った。

アクセス解析で検索ワードを見てみると、結構いろんな検索に引っかかっているようだ。
「闇サ○ト リ○リン」で訪問された方がいる。リ○リンを不正に入手したり販売している事への批判を書いた。だが、googleやyahoo!などで「闇サ○ト リ○リン」と検索して私のブログが出てくると、なんかココが闇サ○トに思われそうで嫌だ。

そう考えると、「感謝の連鎖」というネーミングにしておいて、ポリアンナじゃないけれど、本当によかったと思う。嫌だよ、ねずみピー(自主規制)で検索エンジンにヒットするなんて。
これでも一応、健全なブログなんだから。
不真面目だけど。
ああ、不真面目さ!
不真面目ですとも!!
私の信念の一つに、「真面目に不真面目」というのがあるからね!!
頭蓋骨だって鳴らすさ!!鳴らしてやるともさ!!

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その、瞳に映るものは

日時:2008/04/16(水) 19:27   カテゴリ:私教
昨日、ぼんやりと考えていた。
私が見ている世界と、嫁さんや他の人が見ている世界は同じなんだろうか、と。
同じである訳がないのだがね。
同じであって欲しかったのだろうか。

原理は同じでも、眼球も脳もみんな違うんだから、見えているものが同じである筈がない。私が自分を鏡に映して見た姿と、他人が見ている私の姿も、違う筈だ。同じものを見ていても、みんな違うように見えているはずだ。

人間が認識できる世界そのものが、非常に狭い。
嗅覚や聴覚や視覚は、著しく他の動物より劣っている。
この世界には、人間の眼では捉えられない光も多く存在している。我々の耳では捉えられない音も多く存在する。蝙蝠は我々には聞こえない音を聞き、昆虫は我々には見えない光を見ている。
そういう意味では、人間は、虫以下だ(笑)
しかしながら、地球上で一番でかい顔をしているのは、人間だ。
そりゃあ、地球上の全ての動植物や環境や地球そのものから嫌われて当たり前だ。
だから、シャアも粛清しようとしたんだな。
ガンダムの話は置いといて。

人間という生き物は、凄く狭い世界だけで生きている。
その上、個体差があって、皆、同じではない。
狭い世界でしか生きられないのに、完全に自分と同じように見えている人など、誰一人としていない。狭い世界でしか生きられないのに、完全に自分と同じように聞こえている人など、誰一人としていない。メチャクチャ孤独だな。

個体差があるから、他人とは全く同じように見ることはできない、他人とは全く同じように聞くこともできない。それだけでも、意見が食い違う充分な理由になるだろう。そもそも、見ているモノ、聞いているモノが、根本的に同じではないのだから、受け止め方や考え方が違って当然、全く同じ考え方が出来るという方がよっぽど珍しい事だろう。
だから争いが絶えないんだろうけれど、だからこそ争わなくてもいいじゃないのだろうか。

他人の事をどこまで理解出来るかと言えば、全てを理解するのは困難だろう。見えているモノも、聞こえているモノも違うし、考え方も違う。それらを越えて、他人を完全に理解するのは、奇蹟に近い。
ゆえに、少しでも可能な限り理解しようとするのだろうし、そうするべきだろう。

別に納得する必要なんかない。相手に合わせる必要もない。考え方が違うのに、納得なんてできんだろ。見えてないモノを、納得なんてできんだろ。聞こえてないモノを納得なんてできんだろ。
納得できなくても、理解しようとする事は出来る。絶対に納得できないと判っていても、相手を理解しようとする事は出来る。決して相手の全てを理解する事などできないし、理解したところで納得する気なんか初めからない、だとしても理解しようとする事はできる。
本当に理解できたかどうか、ましてや納得できるかどうかなんて、予測できる事でもないんだから、理解しようと言う行為だけでも、充分だ。

納得できるかどうかは後で考えるとして、まずは、相手の瞳に何が映っているのか確かめてみたらどうだろう。

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同じなわけあるか

日時:2008/02/22(金) 19:59   カテゴリ:私教
以前と何も変わってない。以前と全く同じだ。以前と同じ事を繰り返している。

そんわけあるか。変わってないのは、変わった事に気付けないことだけだろ。
仮にだ、あくまでも、仮に、自分が全く変わってなかったとする。それでも、以前と全く同じであるわけがない。
生憎だが、時間は全ての人に平等に流れている。自分が変わってなくても、周りは変わっていってんだよ。それなのに、以前と全く同じだなんて、見えてないにも程がある。

結局、一周して同じところに戻ってきてしまった。
違ぁーう!!
平面じゃない。時間と共に周りは変化している。同じ位置に立っている、一周して元の場所に戻ってきた、そう思えても、実際の足跡はスパイラル、らせん状の中に身を置いている。一段降りているのか昇っているのは、自分次第だが、同じ場所に居続けることなど誰にも出来はしない。

もちろん、いつまでも螺旋の中に身を置いていなくても、エスカレーターやエレベーターに乗り換える事だって、いつでもできる。

田舎の電車に乗ってみな。同じような景色ばっかりで、全く進んでいない錯覚を起こす事もあるが、確実に電車は進んでいる。

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成せば?成るように?

日時:2008/02/22(金) 19:40   カテゴリ:私教
「成せば成る」という言葉があります。
一方で「成るようにしか成らない」という言葉もあります。

なんじゃ?禅問答か?
どっちやねん!!って感じですね。
さて、どちらが正しいのか、どちらが真理に近いのか。
おっさんの経験則から言えば、どちらも言葉足らず、両方合わせて正解、といった気がします。また訳の分からんことを言い始めたよ、と思われるかもしれませんねえ。でも、どちらも真実ですよ。
結果論から言うと、成るようにしか成りません。精神論で言えば、成せば成ります。ちょっと待って下さい、混乱してきちゃった・・・。
えーっと、成るようにしか成らないんですが、成す気がなければ成るものも成らない、って事なんです。さらに混乱するかもしれませんが、凝縮して言い換えると、「成るべくして成る」です。
本当に禅問答みたいになってきたなあ・・・。寝てないから、思考力が気持ちについてきてないんですよね。そんな時に、こんなこと書くなと怒られそうですが・・・。

稲作を例にして話します。降水量や日照時間といった自然の恵みは、人間の力ではどうしようもありません。台風がきて、全部の稲が倒されてしまう事もあるでしょう。到底、人の力の及ぶ事ではありません。生活がかかっているとなれば、もちろん、出来る限りのことはするでしょう。土を肥やし、草をむしり、害虫を駆除する。農薬を使うか、害虫の天敵を使うか、といった方法論は、ややこしくなるので横に置いておきましょう。とにかく、出来る限りの事は精一杯やって、少しでも多く収穫できるように努力するはずです。それでもやはり、大自然の力には敵わないので、最善を尽くしたとしても、成るようにしか成りません。
じゃあやっぱり、「成るようにしか成らない」じゃねえかと、早合点しないで下さい。これ以上、踏み込む気がなければ、どれだけ最善を尽くしても「成るようにしか成らない」で終わるでしょう。これより先に踏み込むかどうかが、「成せば成る」の所以です。
すぐに思いつくのは、まず、品種改良ですね。日照時間が少なくても育ちやすいとか、やせた土地でも育ちやすいなど、なんとか少しでも収穫量が多く美味しいお米をと、いろいろ工夫された結果、現在のような多くの品種のお米を生みました。
資金を無視して考えれば、田んぼをドームで囲ってしまい、エアコンや照明や有益な虫を使った全天候型施設なんかも思いつくでしょう。技術的には、不可能な話ではないはずです。やるか、やらないか、だけの話です。

結局は、どこまで踏み込んでいくかで、「成るようにしか成らない」と「成せば成る」の境界線が変わってくるはずです。だから、「成るべくして成る」だと言うんです。自分が踏み込んだ以上の結果は、絶対に生まれません。でも本気で踏み込めば、それだけの結果は出ます。金に糸目を付けず、技術的に可能なら、必ず結果は出ます。後は、どこまで踏み込むか次第です。

そんなの理想論だと笑う方もいるでしょう。でも、「成るようにしか成らない」が限界だと、「自分の限界」をすり替えて語られると、次代の人達もそうなのかと思ってしまうでしょう。自分の限界は限界で仕方がない。だけど、語り継ぐのは理想論でなければ、どんどん限界が狭まってきてしまいます。自分の限界は仕方がないけれど、次代はそれを超えられるかもしれないんだから。

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信仰?

日時:2008/02/09(土) 23:38   カテゴリ:私教
よく宗教の話やらしてますけど、信仰心はないです。
釈迦の話やキリストの話を持ち出すと、警戒する方もいらしゃるでしょう。
私を胡散臭い新興宗教でもやっているのかと、お疑いの方もいらっしゃるかもしれません。

逆に聞きますが、学歴という宗教を信仰してませんか?
あいにく私は無神論者で、修士(工学)ですけど偏差値否定論者です。もう、人間を測る物差しとして偏差値を使う事に無理があると思いますよ。
ノートパソコンとLAN回線さえあれば、中学生でもセンター試験でいい点数が取れるんじゃないですか?そのスキルも称えるべき事ですし。
学歴で将来を決める考えは、とっくに化石時代になって然るべきだと思います。将来に見合ったスキルがあるかどうかで、評価すべきでしょう。現状では、不可能ですけれど。

お受験様のおかげで、どれだけ心の成長度が低くなった事か。高学歴、高偏差値でひたすら勉強ばかりしてきた人ほど、子供っぽい行動をしてますよねえ。社会人になってからも、なんでも人のせいにするし。そんな宗教が人を救うとは思えませんけれど。
でも、まだ信者は、かなり多いようですね。

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言い訳は嫌い

日時:2008/01/29(火) 00:13   カテゴリ:私教
私は、言い訳が嫌いです。私は、言い訳をほとんどしません。

無敵の逆説論を盗ませてもらった、私の尊敬する技師は、「できない理由(言い訳)を考える時間があるなら、どうやったらできるかを考えた方が建設的でしょ。」と言いきります。全くもってその通りでございます。

そしてもう1つ、「反省すれど後悔なし」

さらにもう1つ、「暗いと不平を言う代わりに、俺が明かりを点けてやる」。本来は、「暗いと不平を言う前に、進んで明かりを点けましょう」です。残念ですが、私はそこまで、人間の器が大きくありません。だから、不平や不満を言わせてもらいます。いわゆる、愚痴ですね。

不平や不満は、何処にでも、誰にでもある事です。肝心なのは、その先です。不平や不満を、いくら論理的に分析しようが、法律的根拠を引用しようが、そこで終わるなら、それは只の言い訳です。どれだけ、言い訳を並べていっても、何もしなければ何も変わりません。自分が何もしないのではなく、何も出来ないのだと言いたげに、どこまでも果てしなく言い訳は続いていくことでしょう。

私は、どう考えても結果を出せないような事(例えば物理的に不可能な事)や、どうでもいいような事には、愚痴は言わないし、言い訳もしません。黙って従います。
私は、愚痴を言ったからには、必ず行動に移します。無敵の逆説論をぶら下げて。結果が出るまで頑張ります。頑張りすぎて、今は、倒れてしまいましたが。
私の愚痴は、必ず変えてやると言う意思表明です。何もしようとしない、言い訳ではありません。とはいえ、私も軟弱な人間なので、言い訳めいた事もたまに、ついポロッと言ってしまう事もありますが・・・。

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後悔は止めた

日時:2008/01/22(火) 14:35   カテゴリ:私教
いつ頃だったかな・・・
ああ、親友に自殺願望をぶん殴られた時か。
あの時から、私は、「後悔」というものを捨て去りました。

それ以前の私に関して言えば、後悔が沢山あります。
でも、「後悔」を捨てたあの日から今日まで、後悔している事など、本当に全く何もありません。

私の信念の一つです。
「反省すれど後悔なし」
後悔なんて、するだけ時間の無駄です。言い切ります。後悔なんか、カラスの餌にでもしてしまえ。カラスが食うかどうかは知りませんが。「後悔」とは、本当に昔の人は上手く言ったものですね。「後ろを向いて、悔やむ」。ネガティブの極みですね。「後ろを向いて悔やむ」、ただそれだけ。それ以上でもそれ以下でもない。本当に、「後ろを向いて悔やむ」、ただそれだけ。

自分が歩んできた道を、たまには後ろを振り替えって、見つめ直すのもいいでしょう。そういう事が必要なときもあります。だけどそれは、後悔するためじゃありません。今までの自分自身を、しっかりと受け入れるためです。それがどんな道のりだったとしても、過去の自分を否定する事は、今の自分を否定する事です。どんな紆余曲折や艱難辛苦があったとしても、今まで歩んできたからこそ、今の自分が存在するのは、自明の理であります。今の自分を受け入れるためには、一度立ち止まり、後ろを振り返って今日までの自分を見つめ、しっかりと受け入れなければなりません。
今の自分を受け入れられたら、後は、前を向くだけです。

常に目はしかっりと前を見る。今の自分を受け入れられたら、目は前だけを見る。
で、なんだっけ?後悔?後ろを向いて悔やむだけ?ナニソレ?後悔している時間が勿体無いわい。後ろを向いて悔やんでいても、前には進めないじゃん。別に生き急いでいる訳じゃないけど、前を目指しているのに、前に進めない事をしても仕方がないでしょ。だったら、「後悔」なんて、するだけ時間の無駄。

でも、反省はとても重要な事。「反省」は、失敗をかえりみて改めること。同じ過ちを繰り返さないために、失敗したときは、しっかり反省しないといけない。なんとなれば、僅かでも前へ進みたいから。何度も同じ失敗を繰り返して躓き転んでいたら、無駄に痛い思いをするだけ。無駄に痛い思いをしないよう、自己防衛のためにも、しっかりと失敗をかえりみて改めないといけません。たとえ歩みが遅くても、確実に前へ進んでいくために。

「後悔」と「反省」。似てるように思えるかもしれませんが、モチベーションがまったく違います。私は前に進みたいから、「後悔」を捨て去りました。もちろん、「反省」は、星の数ほどしてきましたよ。
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頭の良し悪し

日時:2008/01/21(月) 16:14   カテゴリ:私教
頭がいいって、偏差値じゃないでしょ。

難しい試験に合格して、偏差値の高い大学に入って、これまた難しい国家試験に合格して、それでも非常識な事をやる人を、頭が良いとは誰も言わないと思います。本人は、頭がいいと思っているかもしれませんが。

中卒でも、臨機応変に対応が出来て、しかも早くて正確で、何が重要かをすぐに察して自ら行動を起こせる人もたくさんいます。そういう人を、頭が悪いなんていう人はいないでしょう。本人は、中卒だからと謙遜されると思いますが。

学歴社会と言われてますが、私には無縁の世界です。
学力はないですから。九九もできません(笑)。でも、社会的な常識は、少しでもあるつもりです。慣習的な常識は、ありません。むしろ、慣習的な常識に逆らってでも、自分に大切な事を優先します。古い慣習を大切に思われている方からは、非常識で愚か者(頭が悪い)と言われているでしょう。社会的な常識と、慣習的な常識が異なる場合も多く、私は迷わず社会的な常識を選ぶので、益々、愚か者と思われているでしょう。それでも、社会的に非常識な人よりは、マシだと思ってます。

何かに特化した知識を持つ方もいます。その筋では優秀と言われるかも知れませんが、公道にでれば只の人です。社長や官僚も、公道へ出れば只の人です。社長だからって、ポイ捨てや咥えタバコをしてもいい訳じゃありません。
頭が良いとか悪いとか、優秀だとか劣悪だとか、結局は、その人の立っている場所によって変わるんじゃないでしょうか。どれだけ優秀だ、頭が良いと言われていても、狭い場所だけの話です。
立ち位置によって変化してしまうような、頭の良さに、異様なほどプライドを持ったり、固執することに、どれだけ大きな意味があるんでしょう。

前述の、中卒でも重要な事に自分から行動を起こせる人は、どれだけ立ち位置が変わっても、非常識な事はしないだろうし、どこへ行っても賞賛されるでしょう。それでも、たぶん中卒だからって謙遜されると思いますが。
そういう人が少なくなってしまったんですかねえ。

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新年を祝ったりなどしない。

日時:2008/01/01(火) 13:43   カテゴリ:私教
少々、予定外の空き時間が出来てしまったので、本年一発目の記事を書きます。

私にとって、古来の日本のよき伝統が消え去った現在、正月はただの365日の内の1日にしか過ぎません。
もはや、若きブロガー達は、「数え年」の数え方も知らないと思われます。ウチの嫁も、知りませんでした。

人は、産まれいずる前に、母の胎内で十月十日、つまり1年近くを過ごします。ですから出産し、オギャーだのウギャーだのアハーンだの、産声を上げた時を1歳と数えます。これって、メチャメチャ素敵やん(島田紳助風)。受精して着床し、命の芽生えが始まった時から、年齢をカウントし始めている訳です。この発想は、実に素晴らしいと、私は心から感じました。命の芽生えたときから、歳を数える。出産から数えるのではなく、命が母人に宿った時から歳を数える。とても理に適った、素晴らしく素敵な考え方です。
更に、昔の人は、みんな出産日は違えども、等しく母の胎内より産まれ出た命なのだから、みんなで一緒に歳をとり、自分達がこの世に生まれた喜びをお互いに祝福し合おうじゃないと、考えました。それが、1月1日です。産まれた時が1歳で、元日にみんなで歳をとろうというのですから、1月1日に全国民が1歳ずつ歳をとるのです。例えば、12月31日に産まれた子は、まず産まれた時点で1歳、たった1日しか経ってなくとも、翌日の元日には2歳になります。これもやっぱり、素敵やん(島田紳助風2回目)。皆で一緒に歳をとり、お互いにこの世に生を受けた喜びを祝い合おうという、この発想は、本当に素晴らしい考え方だと心から思います。

日本人が古来から続けてきた、この素晴らしい歳の数え方を、日本人は自ら捨ててしまいました。私は、正月が来るたびに、悲しくなるのです。西洋文化のような物質文明は、経年劣化という避けられない宿命が、必ずあります。しかし、東洋文化のような精神文明は、半永久的に保つ事もできるのです。日本人が選択したのは、ご承知のように西洋文化です。「数え年」の考え方を捨ててしまった国で、正月を祝うような気分にはなれません。ただ、悲しいだけです。

日本人自身が、古来の本当に素晴らしい風習を捨て、元日を貶めてしまった以上、私の中で元日はは、ただの休日でしかなく、あくまで365日のうちの平凡な1日でしかないのです。社交辞令として年末年始の挨拶はしますが、本当に祝う気持ちなど、全くありません。

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生きていく意味(転載)

日時:2007/12/17(月) 16:50   カテゴリ:私教
うつ病の方のブログ巡りをしていると、普通って何?という事の他に、よく見かけるのが、生きていく意味がない、又は生きている価値がないなど、生きる意味をキーワードにした記事を良く見かけます。

人の縁(えにし)には、大事な意味があります。それが親御さんや子供さんなら、なおさら大きな意味があるでしょう。既にご両親を亡くされた方や、事故や病気で子供さんを亡くされた方や、伴侶もなく一人暮らしをされている方にとっても、同じ事です。一度結ばれた縁は消える事はありません。良くも悪くも、すごく大切で大きな意味があるはずです。

ご自分の生を否定される事は、自分の親や、子供の生を否定する事に繋がります。なぜなら、縁とは、途切れなくずっと繋がっているからです。
ご自分に生きている意味がないと思われるのなら、親御さんや子供さんの事も、生きている意味がないと仰るのですか?ご自分に生きる価値がないと思われるなら、親御さんや子供さんの事も、生きる価値がないと仰るのですか?
生まれた事が罪だと思うなら、産んだ事も罪だと仰るのですか?
改めて言いますが、縁とは消える事無く、途切れず、ずっと繋がっていて、親や子供の縁には、すごく大切で大きな意味があると言ったはずですよ。

生きている意味は、生きて追い求めない限り、解るはずがありません。生きる価値は、生き続けて自分で見つけるか、自分で作るしかありません。
この世の総てに必ず意味があるように、あなたが生まれたのは偶然ではなく必然であり、必ず意味のあることです。

私が産まれた意味なんか知りません。ウチの親に聞いてください。私が産まれた意味=私を産んだ意味ですから。強いて言うならば、嫁さんと出逢う為じゃないですか。
私が生きていく意味は、ありますよ。他人から否定されたとしても、絶対にあります。今の私には、嫁さんを大切にしたいと思う気持ちがあるから、嫁さんを幸せにする為に生きていきます。生きる価値も、そこにあると思います。嫁さんを幸せにすることは、私の義務であり私の切なる望みですから。私以外に、嫁さんを幸せ出来る訳がありません。ならば私には、当然、生きる価値があるに決まってるじゃないですか。

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縁(えにし)(転載)

日時:2007/12/17(月) 12:31   カテゴリ:私教
CLAMPの漫画からの引用3連発目です。
CLAMPの漫画では、特に大きな意味を持つものとして、人と人の縁を、重視しているようです。

これには私も共感できます。人と人の縁ほど摩訶不思議で、深く大きな意味があると思います。たまにイラリとさせられる嫁さんですが、私の嫁になる為に生まれてきてくれたのかと、錯覚を起こすほど、素敵な野郎ヤツです。自分も精神疾患だからということもあるでしょうが、チャランチャランチャラ♪たっぷり詰まった脂肪が醜い、見た目は怠け者、頭脳はうつ病、名短足 やのじ!!のことを、暖かく支えてくれています。はっきり言って、愛してます。うん。

何の話だっけ?あ、そうそう、だから人と人の縁には、必ず大きな意味があるはずです。例えそれが、反目しあう相手であったとしても、絶交してしまった人であったとしても、大きな意味があったはずです。反面教師として、学ぶ所が多くありませんでしたか?自分は、ああいうタイプとは馬が合わないんだなと、学びませんでしたか?その人の事を自分がどう思っていようとも、ああいうタイプの人と一緒にいると、災いがすべて自分に降りかかってくるんだなと、学びませんでしたか?気の合う仲間だけでなく、そういう人との縁にも、やはり大きな意味があるようです。

CLAMPは縁のことを、こう書いています。「どんな小さな出逢いでも出来事でも、必ずその後に影響を及ばす。ヒトの道筋は途切れなくずっと繋がっていくモノ。どれほど小さなデキゴトでも、たとえ、それが、どれほど短いジカンでも、キオクに残らず、キロクにも残らなくても、結ばれた縁は、消えない」

確かに、嫁さんを通じて、逢った事もない、んみたんという天然お譲ちゃんから爆笑ネタを提供してもらっているし、ミッフィーのぬいぐるみをあげたパヤ坊から鍋料理を頂いたし、私を通じてこの記事を読んだあなたにまで、本当に繋がっていくモノのようです。
縁に意味がないのなら、繋がっていったりしないでしょう。やはり、大きな意味があるからそこ、出逢い繋がっていくのだと思います。

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必ず意味がある(転載)

日時:2007/12/17(月) 12:27   カテゴリ:私教
CLAMPの漫画に多用されている言葉があります。
「総ての出来事には必ず意味がある」
私は、この言葉も大好きです。「必然」と同じく、この言葉に出会ってから、漠然と感じていたモヤモヤがスッと晴れたような気がしました。

「総ての出来事には必ず意味がある」
逆説的に言えば、意味のない事など何一つないという事。
どんな意味があるのかは、その時々によって違うし、意味が分からない事も多いでしょう。それでも、必ず意味があるはずです。無意味な現象なら、わざわざ発生する意味がないので、無意味な現象など起こるわけがないのです。

必ず意味があります。例えそれが、辛く悲しい事であっても、そこには必ず意味があります。
意味を理解して自分の行動に反映させられる人は、素晴らしいと思います。しかし、多くの人は意味が分からないか、意味を考えようともしていないでしょう。うつ病患者には、意味を追い求める人が多い気がします。健康な人が、意味など考えずにボヘ〜と暮らしているのに、いろんな苦痛を抱える、脳の病気にかかった患者が、意味を追い求めています。逆じゃないでしょうか、本来なら。なぜ、こうなったんでしょう。これにも意味があるはずです。
私は、イラチ(方言かな?苛立ちやすい人という意味)なので、ある程度考えても分からなかったらイラッときて考えるのをやめてしまいます。これにも、意味があると最近気付きました。だから私は、考えすぎて袋小路に入り込まないのです。私は他人から、考え過ぎとも、考え無しとも言われた事がありません。(補足:前回のうつ状態の時は、無気力と抑うつ気分の複合型だったので、散々袋小路を彷徨いましたよ。普通って何だろう、なんで生まれてきたんだろう、私に価値なんてあるんだろうかetc)

どんな意味があるのかは、その人しか解らないかも知れないし、本人でも解らないかも知れない。しかし、意味を考える事が重要であり、そこに大きな意味があると思います。

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総ては必然(転載)

日時:2007/12/17(月) 12:24   カテゴリ:私教
CLAMPの漫画に多用されている言葉があります。
「この世に偶然なんてない。あるのは必然だけ。」
私は、この言葉が大好きです。この言葉に出会ってから、漠然と感じていたモヤモヤがスッと晴れたような気がしました。

「この世に偶然なんてない。あるのは必然だけ。」
これは、実に明快な言葉です。どれほどあたかも偶然の出来事のように思えても、突き詰めて考えてみれば、起こるべくして起きた事。

楽しみな遠足の日が晴れだった。偶然だと思いますか?違いますよね。気圧や風量、風向きなどの気象条件に加え、地理的な条件などが重なって、晴れるべくして晴れた。つまり、必然です。
こうしてブログを通じて出会えたのは偶然ですか?違う。私が、ブログを開設して記事を書き続けていた。そして、あなたがブログ巡りをしてくれたから、こうしてモニターの向うのあなたに出会えた。出会うべくして出会った訳です。つまり、必然です。
このように、偶然のように思えても、しっかりとした科学的、物理的、心理的などの要因が裏付けとして存在するのです。ですから、この世に偶然はなく、あるのは必然だけだと言う事です。

しかし、人間は神秘的な物や事柄を好む傾向にあるようです。たとえ必然的に起きただけの事であっても、偶然だと思いたい。偶然だと思う事で神秘性が高まり、心地よい気分になりたいと、無意識に考えているのでしょう。
かくいう私も、町で出会った友人に、「偶然だね」と言われて、いちいちこんな説明をしたくないので、「そうだね、すごい偶然だね」と便宜上答えています。でも、お互いに用事があって、そこを通る必要があり、出発した時間と距離を考えれば、二人がそこで出会うのは必然でしかありえません。

この世に偶然なんてない。あるのは必然だけ。それは、ちゃんとした裏付けがあって、起きるべきして起きた事。だからこそ、神秘性などを求めるのではなく、そこに含まれた意味を考えるべきではないでしょうか。必然が生じた要因は、科学的根拠で証明するのは容易いですが、その必然に含まれた意味がなんであるかは、科学的に分析する事はできません。必然として起こったことに含まれた意味を、考える事が重要であり、そこに大きな意味があると思います。

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人生って便秘みたいだね

日時:2007/12/15(土) 16:57   カテゴリ:私教
だって、いくら踏ん張っても、いきんでも、ダメな時はダメでしょ。

で、ふっと力を抜いたときに、思いがけず上手くいったりするし。

ね?人生って便秘みたいだと思いませんか?
え?便秘になった事がないから解らない?そりゃあ良かったですね。
じゃあ、この記事読んでも解らないのは当然なんだから、読まなくていいじゃないですか!(笑)

最近、食欲が減退して偏った食生活ですけど、ナイシトールのおかげで、なんとか便秘にならずに済んでます。
本当にたくさんの野菜を食べたり、繊維質を含んだドリンクやサプリメントを摂らないと、すぐに便秘になるんです。仕事に行けていた時は、いつもそうでした。たぶん、私にとっては、仕事のストレスが、便秘の最大の原因なんでしょう。仕事に行かない土日は、結構マシでしたから。ですから、酷い時は1週間ほど長引く事もありました。ナイシトールを飲むようになって、かろうじてなんとか便秘にはならなくなりました。
無職の今は、ナイシトールを飲まなくても、ちゃんと繊維質を摂っていれば大丈夫なんですが、食事が偏ると、会社勤めをしていた時よりはマシですが、やはり便秘気味になってしまいます。
いやあ、ナイシトールのおかげで、本当に助かってます。

なんか、ナイシトールの宣伝記事みたいになってきたので、この辺で止めます。

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