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第525回「身のまわりのちょっと珍しい生き物」

日時:2008/07/03(木) 19:14   カテゴリ:トラックバックテーマ
な、なに?
なんだ?
なんだよお。
みんな、なに見てるんだよお。
・・・。
Σ(´゚д゚`)・・・!?ハッ
私か?!

こんにちは!FC2ブログトラックバックテーマ担当浜地です。
今日のテーマは「身のまわりのちょっと珍しい生き物」です。

会社の近くに、なんと『アルパカ』という生き物がいます。
(アルパカを知らない人は調べてみてくださいね)

道路に面したところに柵があり、その中にいたのですが、
とっても不思議な生き物・・・
毛がフサフサでなんともいえない顔をしていて
とっても可愛いです。
通...
第525回「身のまわりのちょっと珍しい生き物」


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人の価値(1)委ねる

日時:2008/07/03(木) 17:00   カテゴリ:私教
人の価値は、自己評価だけでは決められない。

例えば、料理の腕を極めたとする。そこが料亭やレストランなら、高く評価され人の役に立つ事ができるはず。だが、3食つきの寮に入って動物園で働く飼育係だったなら、極めた料理の腕を披露する機会すらなく、料理で人の役に立つ事はできない。

人の価値は、絶対的な評価として表すのが難しい。
しかし学生には、人の価値を数値で表した絶対的な評価がある。偏差値だ。私個人は愚論だと思っているが、偏差値宗教を崇拝する信者が多いこの国では、残念ながら偏差値なんかで学生の価値を決めてしまうことが多い。
学生自身も、自分の価値をそれで測って、安心している面があるかもしれない。しかし、学生ではなくなったときから、自分の価値を表す絶対的な評価基準が存在しなくなる。
社会人になってまず戸惑うのは、自分で自分の価値を測る『ものさし』が、その環境に用意されていない事だろう。企業に就職した場合、査定という自分を評価してくれる『ものさし』がある。しかしこれは、自己評価ではなく相対的な評価であり、周囲の、特に上司の主観によるものだ。自分で自分を測るための『ものさし』ではない。

人の価値は、例え自分の中に絶対的な『ものさし』があったとしても、それだけで判断するのは自己満足になりやすい。自分がいる環境によって周囲からの評価は大きく異なり、『役に立っている』のかどうかは、『周りの人が感じること』である。いくら自分が『人の為に』と思ってやったことであっても、周囲の人がどう感じるかで『役に立った』かどうかが決まるのであり、その評価基準は環境に大きく左右される。おおむね、人の価値というのは、わが身をおいた環境に委ねるしかない。

いくら頑張っても他人の評価でしか自分の価値が決まらないなら、何をどう頑張ればいいのか解らない、周囲にゴマをするほうが人の価値が高くなるのか、そんなことするくらいなら自分の『ものさし』を絶対評価にして励んでいく、そう考える人がいるかもしれない。
しかしそう結論付ける前に、自分自身が何に人の価値を見いだしているのか、人の価値をどう捉えているか、よく知るべきだろう。解りやすいのは、到達点を思い描く事。達成感をえられる状態を想像する事。どのような状態になったら、自分の価値を感じられるようになるのか。
例えば、どんなチューンでもできるメカニックになりたいとする。それは、何故なのか。どうして、どんなチューンでもできるようになりたいのか。どんなお客さんの要望にも応えられる為に、ではないだろうか。どんなチューンでもできるようになったと自己満足したいだけなら、自己満足が目的なら、自分の『ものさし』だけで励めばいい。お客さんという他人の評価と係わりがあるなら、自分の『ものさし』だけでは不充分だ。

人の価値を他人に委ねるのは、他人の顔色をうかがうことではない。
自分がこうありたいと思い描いたとき、人はその環境に身を置こうとするが、ここで努力が必要な場合もあるだろう。優秀な弁護士になりたいなら、まず試験に通らなければならない。
頑張った結果、その環境に身を置く事ができたとして、そこがゴールではないはずだ。そこから、こうありたいと思い描いた姿を達成するための努力が始まっていく。
このとき、何のレスポンスもないのでは、達成できたかどうかも解らないし、努力の方向性が正しいかも解らない。そのために、周囲のリアクションが必要になる。顔色をうかがうためではなく、フィードバックとして、今後の努力への参考として、他人の評価を受け入れる。
自己満足や空回りになっていないかチェックするためにも、さらなる精進を重ねるためにも、『他人の目に映った自分の姿』を正視するべきだろう。

自分の価値を追い求めるなら、評価は他者に委ねればいい。

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「後悔」をやめるススメ(その1)

日時:2008/07/03(木) 14:20   カテゴリ:私教
以前にも書いたはずなんだが、見当たらないのであらためて(たぶん)。

反省」と「後悔」は似て非なるもの。
どちらも、「どうしてあの時・・・」と振り返って失敗を考える事には違いないが、モチベーションによってその後の行動が全く異なってくる。ベソをかいていじけるか、立ち上がるか。
『何の為に』、悔しい出来事を思い返すのか。いじけるためなら、自傷行為と同じだ。
『より良く・次こそは・後進の為にも』などのポジティブな目的のために、失敗を悔やみ、ちゃんと正面から見つめなおすのが、「反省」。
『異なる現在・別の未来』などの虚しい妄想にひたって現実逃避をする等、ネガティブな目的のために、失敗を悔やみ、後ろからしか見ないのが「後悔」。
ベクトルが正反対だ。

私は、「こういう結果にしかならないから、止めたほうがいい。」と言われても、「やっぱり、そうか」と自分で体験しないと気がすまない。もちろん、失敗した時の対応策も準備した上でやるのだが。自分で経験しないと、『血肉』・『肥やし』にはなりにくい。
自分がそうなので、後輩から相談されても「やってみたら?」と答えることが多い。もちろん、失敗すると解っていて止めなかったんだから、私も責任をとる覚悟はあるし、失敗した時の対応策も私のほうで手配しておく。

よく後輩などに「やって後悔するくらいなら止めておけ、やらずに後悔するならやっておけ」と私は言う。補足しないと誰も解ってくれないけれど(涙
もし「あの時、やめておけばよかった」と、「後悔」する可能性が僅かでもあるなら、『やめておけ』。
もし「あの時、なんでやらなかったんだ」と、「後悔」する可能性が僅かでもあるなら、『やっておけ』。
後悔」などという無益な思いをするくらいなら、なるべく後悔しないと思えるほうを選ぶべきだと私は考える。
失敗してもキチンと「反省」する心構えがあるのなら、どっちでも構わないのだが。
そもそも、「反省」する心構えができている奴は、「どうしたらいい?」なんて聞いたりしないがね。

私は「反省」することはあっても、「後悔」しないように努めている。ここは意地を張るところだと、私は思っている。もちろん、誰でもない、自分に対して意地を張るべきところだろう。
悔しい思いは誰にでもある。
どんな時にでも起こりうる。
それをどう転じるか、結局は己次第でしかない。

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